大阪城をぐるっとひとまわりご案内します

たまちゃんのWEBページを作ってから10年近くたったでしょうか。近年は海外からの観光客が増え、大阪城公園内に飲食店ができたり、随分とにぎやかになりました。昔の落ち着きが無くなって残念な気もしますが、大阪は昔から経済効果優先ですね。(平成30年)

大阪城天守閣ホームページより  
大阪城天守閣ホームページより  

大阪府警

大阪市営地下鉄谷町4丁目9番出口を出て北を見るとすぐに大阪歴史博物館やNHKが見えます。南北の通りを上町筋といいます。北に向かって歩くと堂々としたビルが見えます。大阪府警です。

大阪府警察本部新築工事に伴い大阪城跡が発掘調査されました。その発掘で出てきた堀は、まさに家康によって埋められた秀吉の遺構でした。

南外堀 6番櫓

もう大阪城が見えています。信号を渡りましょう。目の前のお濠は南外堀です。美しいお濠です。石垣をごらんください。屏風折(びょうぶおれ)と言って、構造的に強く、敵が攻めて来た時に横矢をかけることができます。。石垣は算木積み(さんぎづみ)といい、長方形の石の長辺と短辺が交互に重ね合わせることで強度を増しています。

石垣の隅には7つの櫓がありましたが、今は6番櫓と1番櫓だけが残っています。(写真6番櫓)明治維新と第2次大戦で多くの建造物が焼失してしまいました。

現在、場内に残る建造遺構は、大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形などです。

                            6番櫓は国の重要文化財です。                                 

大手門・土橋

お城の正面玄関大手門から入りましょう。手前に見えるのは道ではなく土橋です。幅20m、長さ80mでお堀にかけられた橋です。

大手一の門は大阪城に四つある出入り口のうち表玄関です。鉄板を張って守りを強化しています。鉄門(くろがねもん)といいます。 大手門は1628年建造、高麗門形式で作られました。幕末に修復、終戦後解体修理されました。大手門は戦火をのがれた貴重な建物で、現在国の重要文化財に指定されています。

雁木 

土橋両側の石段は雁木(がんぎ)です。大手門の少し手前、向かって左の雁木をご覧ください。一番下の石に紋が彫ってあります。

奥に見えているのは千貫櫓です。

 

石垣の紋など

千貫櫓の下の石垣を見ると紋が彫ってある石があります。ここだけでなく石垣にはあちこちに紋が彫ってあるのが見られます。

この石には九目と彫ってあります。石垣の下から数えて九つ目ということでしょうね。

千貫櫓

 

昭和34年~36年の解体修理の際、「御はしら立/元和六年/九月十三日」と書かれている木材が発見され、棟上げ式の日が1620年と判明しました。二重二階建て、石落としは南側と西側に各二つ、窓は25ヵ所、鉄砲狭間は19か所。唐破風は大手門を守る重要かつ格式の高い櫓とみなされていたからでしょう。場内最古の建造物で、国の重要文化財です。

この地を本拠とした石山本願寺を織田信長が攻めたとき横矢に苦しめられ、「千貫文与えても攻め落としたい。」と語ったのが千貫櫓の名の由来といわれています。石山本願寺の櫓は講和後の火災で焼けたとみられています。信長が再建し、織田信澄にあずけました。信澄の妻は明智光秀の娘。信澄は本能寺の変で光秀との共謀を疑われ、信長の三男信孝に討たれました。秀吉築城の際櫓も一新され3代目に、これを徳川が破壊し、現在は4代目の櫓になります。

大手枡形・二の門

さて、大手門をくぐったところは、大手枡形です。目を引く巨石は鏡石。城主の威厳を示しているようです。鏡石の上は多門櫓です。当初の多門櫓は1628年(寛永5年)に建造されましたが落雷により焼失し、現存のものは1848年(嘉永元年)に再建されました。多門櫓は三方にありましたが南側は明治維新の大火で焼失し礎石だけが残っています。

では、二の門から中に入りましょう。

危ない!気をつけて!頭上から槍が・・・。 多門櫓の門の部分は上からも攻撃できるようになっています。

多門櫓は国の重要文化財です。 

 

南仕切門・太鼓門・馬出し

本丸の南側の南仕切門と太鼓門は明治維新に焼失しました。北側にも同様な仕切門と櫓がありました。 今も石垣の痕跡が残っています。

南仕切門を入った広い場所、今は修道館や豊国(ほうこく)神社があります。もとは馬出しでした。

それ以前は、本願寺推定地。本願寺8世蓮如上人が建立し、その後山科の本願寺が焼き討ちにあった後この地が大阪本願寺になったそうです。

西の丸庭園・乾櫓・硝煙蔵

左手に西の丸庭園があります。桜の季節はお花見でにぎわいます。中には乾櫓、煙硝蔵があります。

 

写真の乾櫓は西の丸の西北「戌亥」(いぬい)の隅を守る隅櫓。元和6年(1620)造営の平面L字型、総二階造り(一階と二階の床面積が同じ)の珍しい櫓で、千貫櫓とともに場内最古の建造物で国の重要文化財に指定されています。

焔硝とは黒色火薬のことで、この蔵は火薬庫です。初期は土蔵造りでしたが、落雷による大爆発の後花崗岩で再築されました。花崗岩の切り石としっくいで固められた建物で、現存唯ーの珍しいもので国の重要文化財に指定されています。

桜門

本丸へ入る桜門です。天守閣の真南に位置します。門の中、正面に天守閣が見えています。

桜門枡形の上には多門櫓がありましたが、明治維新に桜門とともに焼失しました。明治20年に再建され、現在は国の重要文化財に指定されています。

 

蛸石

桜門桝形に入って正面、場内随一の巨石は蛸石です。人と比べると大きいでしょう。石の左部分にシミのような柄があります。それが蛸の頭のようなのでこの名がついたようです。重量推定130トン、高さ5.5メートル、幅11.7メートル、厚味70センチ~90センチ、面積約60平方メートル。

蛸石の左側の巨石(この写真では見えません)が場内3位の振袖石120トンがあります。

ちなみに、第2位は肥後石(京橋門枡形推定120トン)4位は大手見付石(大手門枡形推定108トン)5位は大手二番石(大手門枡形推定85トン)

銀名水井戸の井筒

桜門桝形の中に銀名水井戸の井筒があります。徳川幕府再建築の大阪城本丸に設けられた五つの井戸のうちの一つで、本丸御殿台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられました。「金」「銀」の名称がついている井戸はで格式の高い井戸です。昭和6年(1931)大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道が引かれたそうです。

鬼瓦の紋は?

ちょっと振り返って鬼瓦を見てください。葵の紋ではないですね。今の大阪城は徳川の代に改修されたものなのに、ここはどうして豊臣の紋なのでしょう?

本丸

いよいよ本丸です。周囲は11個の三重櫓と多門櫓に囲まれていました。

十四代将軍徳川家茂、十五代将軍徳川慶喜が上洛し、重要な歴史の舞台にもなった本丸御殿がありました。やはり、明治維新に焼失しました。(写真 本丸東側 幕末)

紀州御殿庭園

紀州御殿は明治18(1885)年に和歌山城から移築されました。江戸時代初期の様式を残す立派な建物でした。戦争では無事でしたが、戦後昭和22年、進駐軍がここを接収しているときに、失火で火の手が出ました。日本の消防が入れてもらえず、無念にも消失してしまいました。今は庭園のみが残っています。

天守閣

豊臣の天守閣は本丸の北東隅にあったと考えられています。5重6階地下2階、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、黄金を強調させていました。5階には、かの有名な黄金の茶室があったといわれています。

徳川の天守閣は、現在とほぼ同じ位置にあり、5重5階地下1階白漆喰塗籠の壁面であったとみられています。1665(寛文5年)落雷により焼失してしまいました。

現在の天守閣は、徳川の天守台石垣の上に建築された鉄筋コンクリート造りです。

昭和3年、昭和天皇即位御大礼記念行事として企画された天守閣復興には市民から寄付金150万円(うち住友吉左衛門が25万円)が集まりましたが、当時、大阪城には陸軍第四師団が置かれていたため、天守閣復興に当たっては大阪市と第四指令弾が協議を重ね、天守閣の建設と大阪城一部公開の引き換え条件として、司令部庁舎を建築することになりました。なんと、その建築費は司令部庁舎80万円、天守閣47万円、公園等整備費23万円。かくして昭和6年3月に完成しました。

平成7年~9年にかけて大改装が行われ黄金の美しい輝が甦りました。

 

こちらのホームページ も参考になりますね

http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-241.html    (HP 十三の今を歩こう) http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1997/17-0405.pdf (土木研究第17号)

 

銅板金箔押し 三巴文軒丸瓦・唐草文軒平瓦

1931年(昭和6年)から1995年(平成7年)の改修開始までの約60年余りの間、天守閣に葺かれていた銅板瓦 。2002年記念のため実費で市民に頒布されました。

旧第四師団司令部庁舎

昭和6年、80万円を投じた陸軍第四司団指令部庁舎は竣工しました。清水組施工で鉄筋コンクリート造り、地上3階地下1階全長95m。外観は中央に塔屋を配した左右対称形で装飾も美しく西洋の古城を思わせます。

戦後約3年間は進駐軍に接収され、その後は大阪市警視庁や大阪府警が使用していました。1960年12月から2001年までの約40年は大阪市立博物館として使われました。私も博物館には何回も足を運びました。大金を投じて建築された建物ですが、今は使用されず老朽化が目立ちます。大阪城には不似合いな建物ではありますが、美しい建物と歴史の証人は守って欲しいと思います。

 

なんと平成19年10月レストランとしてオープンしました。ミライザ大阪城です。

                          

御金蔵

近畿や西国の天領から上がってくる年貢金銀、各種運上金、大阪御蔵米の売却代金を保管しおり、幕府収入の4割ほどがここに入ってきたそうです。

旧第四師団司令部庁舎の北、見落としそうな所にあります。

屋根は寄せ棟・本瓦葺き、壁は上部は白漆喰、下部はなまこ壁、入り口の戸は3重、喚起口や窓は鉄格子、床は石。防火・防犯・防湿に配慮した頑丈な作りとなっています。高さ5.8m広さ93㎡。

「元御金蔵」は1626年三代将軍家光の時代に築造され、1929年(昭和4年)陸軍により解体され高槻工兵隊の建物に転用されましたが、後に焼失しています。現在の「新御金蔵」は1751年(宝暦元年)に築かれ、1837年(天保8年)に大規模な改造が行われました。陸軍によって改変されましたが、昭和35年解体修理により天保8年時の状態に戻されました。現存する徳川唯一土の蔵で国の重要文化財です。

 ところで、慶応4年(明治元年)榎本武揚が御金蔵の御用金18万両を江戸へ運びましたが、その後は、蝦夷地に運ぶ途中海に沈んだとか、陸上のどこかに埋蔵されているとか、真相は今もって謎のままだそうです。

山里丸

「淀君並殉死者三十七忠霊塔」

 

山里丸の中、北西にあります。石段をあがった上なので気づきにくい処です。

一説にはここが淀殿最期の地とも言われています。

殉死者32名の名前と昭和53年7月30日建立 北村政雄と記されています。この地に個人で建立されたのでしょうか?

 

「豊臣秀頼 淀殿自刃の地」 記念碑

 

碑の後ろ側には「慶長20年(1615年)5月8日 大阪城主豊臣秀頼とその母淀殿をはじめとする主従約30名は落城直後の大阪城内で自刃した。その場所については諸説あるが、ここ山里曲輪の一角にあった矢倉の中とする説が有力である。」と記されています。

この記念碑は平成9年大阪市が建てました。

 

極楽橋

内堀にかかる極楽橋。派手な橋ですね。秀吉さんらしい。天守閣の北側ですが、極楽橋からは外堀を経て淀川に出ることができ、京都や淀城への交通の便が良かったのでしょう。この橋は後に京都の豊国(とよくに)神社に移築され、今は琵琶湖竹生島の宝厳寺(西国三十番札所)唐門に一部残っているようです。宝厳寺のものは高さを削ったりしているようですが、こんな重そうなものが橋の上に乗っていたんですね。今は普通の橋がかかっています。

下の橋の図は「豊臣期大阪図屏風」の一部です。オーストリア、グラーツ市にあるエッゲンヴェルク城の「インドの間」の壁画に埋め込まれ、姿は変えられましたが紛失せずに残りました。2006年ケルン大学フランチィスカ・エムーケ教授によってその存在を日本に紹介されました。 

 

高橋隆博編 清文堂 「豊臣期大阪図屏風」

http://www.kansai-u.ac.jp/Museum/osaka-toshi/img/visual/screen/screen.html

 

国際シンポジュウム報告書 新発見「豊臣期大阪図屏風」

http://www.kansai-u.ac.jp/Museum/naniwa/publication/book38.pdf  

鉄の塊

極楽橋を渡って右に折れ(南東方向)に少し歩くと青屋門があります。青屋とは染物屋からつけられた名前だそうです。青屋門を出て左(北西方向)に折れ、桃園とおもいでの森の間を歩いて行くと鉄の塊があります。砲兵工廠の溶鉱炉の鉄の残骸のようです。

砲兵工廠科学分析場

砲兵工廠は陸軍直営の兵器工場として、大砲など重量兵器を生産していました。敷地は城東区にあるJR・地下鉄の車庫、森ノ宮の公団住宅、ビジネスパーク、大阪城公園のすべてを含む約40万坪。最盛期の従業員数は68,000人。 終戦の前日8月14日の大空襲で壊滅しました。砲兵工廠本館は空襲では破壊されませんでしたが、昭和56年5月取り壊されました。今は「砲兵工廠碑」があるのみです。幸い科学分析場(1919年築)は残っています。戦後、野ざらしになっていた時に、窓ガラスが割られたため窓はベニヤ板です。その後、阪大工学部校舎、1964年から1998年まで自衛隊が利用していました。現在は放置されており、見たところ痛みが激しいようです。建築家の置塩章(おじおあきら)氏の設計。保存を願いますが・・・。

 

 

トイレ?守衛詰め所?

ここが砲兵工廠の入り口だったようです。門を挟んで化学分析所と守衛詰め所とみられる建物があります。中には便器がありトイレでもあったようです。明治初期の建物のようですが、もう今にも崩れそうです。一刻も早く修復して頂きたいです。

砲兵工廠の入り口から外へ出た所、日経新聞社、追手門学院、ドーンセンターなどがあります。このあたりにも馬出しがありました。地中から出てきた豊臣時代の石垣跡が復元されています。自然石をそのまま積み上げた「野面積」です。

少し南に京橋口があります。京街道の出発地だったのでこの名がついたのでしょう。京橋口からもう一度お城に入りましょう。 京橋口桝形の多門櫓は昭和20年8月14日終戦前日の空襲で焼失しました。

梅園

京橋口から東に進み、内堀に沿って歩き、先ほどの極楽橋を通過すると、ほどなく梅林が見えてきます。

二の丸の東側、片桐且元の屋敷があった、市正(いちのかみ)曲跡を丸々使用した大阪城梅林。ここでは広大な敷地に植えられた93種、1250本(2002/02現在)の梅が1月から3月末までの長期にわたり順次咲きます。また花の色も、白・ピンク・赤・黄・薄緑と多くの種類があります。「楊貴妃」という名のピンクの美しい花を咲かせる木もありました。
 

石垣

梅林のあたりからみる石垣が一番壮大で美しいと言われています。この写真では迫力なくて残念です。また機会があれば撮って更新します。

蓮如上人袈裟懸け松

蓮如上人は室町時代の浄土真宗の僧で本願寺第八世。本願寺中興の祖と言われています。1496年この場所に石山御坊を建立しました。これが後に石山本願寺と呼ばれます。石山本願寺は後に浄土真宗本願寺派の本山となりました。

朽ち果てた切り株は蓮如上人「袈裟懸け松」です。この松に袈裟を懸け宗派の繁栄を祈願したといわれています。切り株は徳川時代の地層から出てきており伝説にすぎないとも言われています。

ピースおおさか 大阪国際平和センター

第二次世界大戦末期50回を超えるアメリカ軍の空襲により市街地が廃墟と化しました。大阪府では1万2620人、行方不明者2127人(1945(昭和20)年10月大阪府警察局調べ)計約1万5000人の被害があったといわれています。

平成3年、大阪が世界の平和と繁栄に積極的に貢献するために、大阪国際平和センターとして大阪城公園の南端に設置されました。

しかし、この建物と展示工事に30億円近い巨費を投じて作られたにしては安っぽく、ごたごたした設計で、保守もしっかりできていないようです。

いつ行っても人影はまばらなのが残念でした。

露と落ち 霧と消えにし我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢

大阪城は、北は淀川、西は東横堀川、東は猫間川に囲まれ周囲8km、惣構えの強固な守りを誇っていました。南は外堀はあったものの、唯一の弱点でした。真田雪村はこの南を守るべく、大阪冬の陣では南外堀のさらに外に真田丸を陣取り大いなる戦果をあげ天下に名を轟かせました。真田丸は大阪城の堀を背負い、三方を空堀りで囲み、三重に柵をめぐらし、櫓を設けた強固な砦でした。今の場所に照らすと、環状線玉造駅の西側、心眼時のあたりといわれています。すぐ近くの三光神社には銅像や大阪城に抜ける穴跡?があります。

強固な守りのはずの堀が徳川家康よって埋められ、丸裸になった大阪城は慶長20年(1615年)「夏の陣」で真田雪村は5月7日一時は家康本陣に突入し、家康も切腹を決意したと「耶蘇会日本年報」に記されていますが、茶臼山の北にある安居神社で討ち死に、翌8日豊臣秀頼、淀殿自刃、天守は炎上して落城しました。

 

現在の大阪城は徳川秀忠が再築しました。豊臣大阪城を完全に埋め、その上に西国統治の拠点としてそそり立つ石垣の威圧感ある城を再築しました。秀忠は将軍職を光秀に譲ってからも工事を主導し完成を見届けています。